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第四十二話 『九月九日』 ◆雪臣

last update Tanggal publikasi: 2026-09-23 20:37:08

 扉を閉めても、下の階からテレビの音が聞こえていた。

 雪臣は左手で杖を握ったまま、しばらく動けなかった。

 ――何を、した。

 この手が、珠希の頬に触れた。肩に手をかけて、顔を近づけた。

 彼女は動かなかった。いや、きっと動けなかった。こちらを見たまま、何も言わなかった。その顔を思い出すと、杖を持つ手に力が入る。

 明日、甘いものを買う話をしていたはずだ。

 自分の言ったことに対して珠希が笑って、それが嬉しかった。けれど、単に嬉しいだけではなく、別の気持ちも同時に湧きあがった。

 ベッドへ向かおうとして、イーゼルの前で足が止まった。

 数日前から描き始めた、描きかけの絵の中の女性と目が合い、雪臣は思わず視線を落とした。

 珠希にこの部屋の中を見られかけたときは、生きた心地がしなかった。こんなものを見せられるはずがない。イーゼルに布のカバーを被せ、フリンジを整える。

 雪臣は壁際の収納棚に手を伸ばした。薄紙とデッサン用紙が数えきれないほど重なり、引き出しの底は見えない。

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     新年初めての出勤。年末年始は毎日そばにいた雪臣だったが、会社ではやはり顔を合わせる機会も少ない。一度、総務の前ですれ違ったときも、挨拶を交わした直後、別の社員に呼び止められていた。去っていく背中を見送り、デザイン部の自分の席へ戻る。  珠希は、あず実から届いていた『環愛』の冊子の修正データを開いた。雪臣と二人で作った指輪から生まれたものが、今度は誰かの手へ渡っていく――文章からもその思いが滲み出ていて、珠希は思わず左手のマリッジリングに指先で触れた。最後まで修正内容を確かめ、確認済みの印をつけた。  昼休みに入る前、珠希は一階のフラッグシップショップへ下りた。HIMUROが一丸となって生み出してきた商品が、今年も一年、この場所から顧客のもとへ羽ばたいていく。そう思うと、新年最初の出勤日にどうしても店内を見ておきたくなった。  新年の飾りつけをした店内で、女性客がネックレスを試していた。女性が鏡を覗いた途端、その顔がほころぶ。なんだか自分まで嬉しくなるようだった。  女性はしばらく迷ったあと、商品を返した。今日は買わずに帰るらしい。理由は分からない。それでも、鏡の前の笑顔は珠希の心に残っていた。  母と作ったビーズリングを、何度も眺めていた自分を思い出す。特別な日でなくても、いつもの服にひとつ添えるだけで、少し嬉しくなる。そして、その思いはいつしか、ジュエリーデザイナーになって多くの人に同じ気持ちを届けたいという夢に変わった。  近くのカフェで昼食をとりながら、珠希は手帳に小さなペンダントを描いていた。  色石がもつ色そのものを楽しめる形。ダイヤモンドを小さくして価格を抑えるのとは、少し違うもの。ただ、珠希の仕事のデスクには『環愛』のデータがある。『環愛』は今の自分が担当している、大切なシリーズだ。手帳を閉じ、コーヒーを啜る。  そのあと、仕事に戻ってからもときどき考えていた。雪臣なら、さっき手帳に描きかけたペンダントを見て、何と言うだろう。 +   +   +  帰宅すると、台所から出汁の香りがした。 「おかえりなさいませ。珠希さま。もう少々で、お食事をお出しできますよ」 「ありがとうございます、三板さん」  珍しく先

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